2024年2月4日(日)に開催した藤野の歴史や文化を伝える講座『ふじの昔話タイムトラベル〜陣馬街道と松姫伝説を訪ねて』のレポートです。
講師の杉本正夫さん、富田勝さん作成のスライドとテキストをまとめていますのご覧ください。
>>当日ご紹介いただいたスライド(PDF)はこちら↓
はじめに
現在「陣馬街道」と呼ばれる佐野川のこの「街道」は、明治30年代からの呼称で、古くは「佐野川(案下)」「八王子街道」「案下道」などと言われた甲州街道の裏街道です。
この往環は上野原宿から大越峠、佐野川村下岩、倉子峠を通り和田峠を経て上恩方村上・下案下、高留、狐塚、横川に出て甲州街道八王子宿の追分までおよそ30~32キロの行程。山深く和田峠を越える難所が続く険しい街道です。
今は山缶を行く山岳サイクリングコースであり、陣馬、高尾へ抜けるハイキングコースで賑わうところです。
第一部は佐野川方面から和田峠までを紹介し、第二部は陣馬山超えをし、八王子で生を終え、市内「信松院」に眠る武田信玄四女(六女とも言われる)「松姫さま」ゆかりの地を訪ねて、ポイントではあるが八王子側の陣馬街道を紹介します。
上野原宿から和田峠まで
裏街道
甲州街道は現在の裏高尾に「小仏の関所」があったことから、険しくともこの街道を利用する人が多く、「関所ぬけ」を防ぐために恩方「高留」に口留番所をおいたほど。
このため江戸後期頃には、関野、吉野、与瀬、小原、小仏、駒木野各宿の「総代」が代官江川太郎左衛門に裏街道を取り締まるよう要請し、街道は少しさびれたといいます。
いずれにしても甲州裏街道として、明治時代になっても木炭や織物など物産を運び、八王子との結びつきが強かった街道として栄えたところになります。
街道の起点
上野原宿は甲州街道の中心の宿として栄え、西原街道そして案下道(陣馬、八王子街道)への起点でもあります。(陣馬街道の起点は、上野原のどこが起点で佐野川にくるのか諸説あり)
- 江戸時代には案下街道の守りとして花井(現在の山下自動車周辺)に番所をおいたことから、ここから石船方面へ行くと言う説、しかしここは江戸初期には廃止。が、武田領のときには重要な働きをした番所でした。
- 明治29年ころの古地図で見ると、今の保福寺へいく細い通りを入り左に市立病院の方へ行き、羽佐間を通過し小沢に出て、今の上野原中学校の前、八重山登山口のあたりへ出て、大越峠を越すルートが正しいと思えます。途中には道祖神もあり、街道筋の面影を残すところもあり。
八重山駐車場の前には「右八王子。左山道」康申塔の道標があり。ここを超えて佐野川下岩へ出るのが一番自然と思われます。
経路と道標、石仏など
大越峠(山梨県奈須部)~下岩(佐野川村)
大越峠への道はかなり急な坂道で険路(大越路)。峠を越してしばらく行くと社会福祉法人「みのりの里」の施設に出るが、その昔は手前の杉林の沢を下り施設の横に道があり、現在ある道に出たのではないかと思われます。下りきると奈須部から丸畑方面への道路に出るが、分岐点に大正時代のものであるが馬頭観音像があります。
さらに右に行き左へ降りると境川にでる、今県道が高いところを通っているが昔は歩いて下岩の三叉路に出られました。今の森田さんの家の裏から下岩にでたものと考えられます。
佐野川村下岩は旅人が休む集落
宿場ではないが、屋号に「上宿、下宿、とうふや、まんじゅうや、もちや」などがあり。旅人が休んだり、時には泊まったりした小さな宿場のようで、荷車が通れるくらいの道路であったと思われます。八王子方面も含め、この街道は全体がそのくらいの狭い道路の急こう配で、ここも旅人には難儀の集落であったようです。
現在でもここを下から上まで歩くと息がきれます。
下岩には当時の名主「佐藤兵衛さん」が住んでおり、ここに村の年員が納められ代官に渡されました。今この場所は柚子工場などがありますが、向かい側の道上が現在の自宅になっています。
ここに貴重な「一字一石塔」があります。昔から妙見様と言われていましたが「大乗妙典一字一石供養塔」と書かれています。佐野川村には3つの一字一石塔がありますが、そのうちの一つで大変貴重なものです。
なお、上野原の旧甲州街道で山梨中央銀行前の細い道路を行くと、上野原警察の裏手に出ますが、そこにも大きな「大乗妙典」の大石があります。
下岩集落~倉子峠
下岩集落の急な坂道を過ぎると、いよいよ険しい山道に入ります。倉子峠は第一番目の難所です。平らなところはありません。休むのは峠しかありません。
下岩で水などを補給し、一気に登り切ります。途中、南西方向を振り返え見ると富士の山が見え心が癒されます。今は手入れがされない大木が多く景観はよくありませんが、昔は富士がよく見え、景色もよく峠まで一気に行けたと思います。
峠に立つと、ここから下りになりますが、ここの尾根は遠い青梅の御嶽神社や高尾山などへ通じる古道の起点であり、三国、生藤へも通じる要衝のところでもありました。また、峠の右側上には、天神さまを祭り、その昔は天神峠と言われたようです。
なお、峠の頂上には句確があります。
「春なれや名もなき山の朝霞 はせお 松尾芭蕉」
「牛阿かる声に鴨立つ夕べかな 東花坊 各務支考」
この場所は明治になり、村の中心ということで尋常小学校がここに建てられましたが、通学が不便のため廃校に。峠は見事な切通しとなっており、ここを通ると風通しもよく、昔の面影をなお残す場所でもあります。
倉子峠~和田
- 峠を越え急こう配の坂を下り、途中で右の杉林周辺をよく見ると、かつての田園の跡がわずかにあり、句碑に書かれた「牛阿かかる声」も聞こえてきそうなところです。
- 下りきるとようやく平坦な道路に出る。ここからが、和田の集落の始まり。
- ここには昔から3軒の家があり、約500m程行くと、道路上に康神様などを奉った祠や石像があります。道路からは見えにくいが、毎年正月ここの人達は、この神様にお参りをしているといいます。一番高いところにある家の屋号は「さんのう」というが、山王信仰をしていたと考えられます。御嶽神社の犬(日本狼)の札が今でも玄関欄間に貼付してあります。(山王信仰は比叡山下にある日吉神社の祭神で山王権現ともいわれ「安産、子育てなど」の神。「山王のサル」としてサルを使いとし、康神様とも深い関係があるという)
- ここを過ぎると東川寺跡に出ます。かつては、このあたりからかなり下に街道があったが、昭和20年代ころ農道建設で現在の街道となり、違う道であったよう。
- ここを過ぎると左側面に立派な康神様(不動妙王立像、文化2年1819年)が祀ってあります。この辺は橋詰といい、ここを過ぎると、山深いところの山寺である、円通寺に出ます。近年建て替えたが風情のある山寺で一度は寄ってみたいところです。
- ここを過ぎて、鎌沢方面へいくのが街道です。(下る道と分岐する)ここから約500m程行くと左山側の上に富士講の立派な記念確があり。かつてこの辺りの人々は、山岳信仰が盛んで富士山へ講をくんでお参りしたといいます。うっかりすると見逃してしまうので注意して歩くとよいです。
鎌沢~和田そして和田峠へ
- 富士講をあとにして行くと鎌沢の入口の三差路に出ます。これを右に下ると和田集落に出るが、ここもまた急こう配のところ。ここには、珍しい馬頭尊「白馬塔」があります。また天保14年(1843年)の四国八十八か所巡拝供養塔や、藤野で一番古い南無阿弥陀仏頭(文化2年、1805年)の大石があり、この山の中によく作ったものだと思います。
- ここを下りきると和田の八幡神社に出るが、ここは入口が舞台にでき、昭和初期のころ盛んに村芝居が行われ、賑わったようです。ここから、現在は小山工務店の工場となっているところに街道が通っていました。工務店の前には道標があり、その脇に細い道跡があります。道標には「右こぼとけ、左あんげ」とあり、道案内として今に面影を残しています。
- 左に行くと和田峠で恩方案下に出ます。和田集落を歩いて行くと小澤商店の前に小さな橋があり、渡ると細長い地蔵尊があります。正徳3年(1713年)の古いものであるが、正面立像を簡素に線で彫ってあり。右手に錫杖、左手に宝珠、袈裟は左肩から右わきに彫ってあります。
- その上は和田でも古い清水家(現在は無い)の墓があり、寺もあったといいますが、それは円通寺の末寺「古方庵」ではないかと思われます。今、ここは木を伐採したため、南方面に富士山がよく見えるところです。
- 小澤商店や和田集会所を過ぎ「もり」の屋号で親しまれる旧家「清水家」を過ぎた右側にも大きな供養塔があり「百番供養塔」です。文政元年(1818年)とあるが、古いものになります。
- こう配が少しずつきつくなり、7軒ほどの集落を抜けるといよいよ山道になるが、清水武正氏の上に「雨乞い渕」という標識のある林があり、その中に2点目の「大乗妙典一字一石塔」があります。嘉永7年(1854年)、現円通寺通堯法謹書、施主瀬沼彦左衛門とあります。「瀬沼」は八王子恩方地区に多く、和田の清水は一部恩方の「瀬沼」からきたとも言われています。
- ここを過ぎると、あと民家2軒で険しい山道に入ります。山また山の急こう配が長く続き、登りきると和田峠です。現在は県の林道として備され、途中、富士山も遠くに臨まれるところもあり。昔は沢沿いに道があり、「鍋割りの滝」や「義経のあしあと」など言われのあるところもあったが、今は草の中でわかりません。
- 和田峠には茶屋があり、駐車場もあるが、茶屋の前に3点目の「大乗妙典石経」があり、年代などは不明です。高さ142cmの大きな石でありますが、もとは陣馬山の頂上のほうにあったとも言われています。
和田峠~八王子追分までの陣馬街道(案下道)
八王子方面は佐野川と違い、神社、寺も多く大きい、街道筋には、沢山の石仏も多く、大きいものが多く点在し、やはり八王子宿に近いため、迫力のある物があります。しかし、現在の陣馬街道と違い旧道は道幅も狭く入り組んでおり、今回は現在の街道沿いと和田峠を越えたという「松姫さま」の足跡をたどり、紹介していきます。
松姫さまについて(概要)
- 武田信玄の息女(四女とも六女ともいわれる)として永禄4年(1561年)に生まれますが、時は戦国の世で、織田信長勢力拡大のため、息子信忠の妻として迎えようとしました。が、世にいう「三方が原の戦い」で袂を分かちあいます。このため破断となるが、その後、宿玄が亡くなり、松姫は信州高遠城(兄、城主仁科盛信)に移ります。ここを攻めたのがかっての婚約者信忠です。そして、松姫は武田勝頼の敗走と一緒に険しい山越えをし、八王子に逃れました。また信忠は、本能寺の変で亡くなるが、信忠を慕っていた松姫は生を独身で通しました。
- なお、八王子市に「千人町」がありますが、ここはかつて武田家に仕えた甲斐の家臣達の集落であり、現在の市街地をつくったのは「大久保長安」ですが、「大久保」もまた、かつて武田家に仕えた江戸幕府の重要人物でした。このため援助者も多く、八王子で松姫さまは生涯を終えることになったと言われています。
都林道~高留の番所跡付近
- 和田峠を越えると都の林道に入り、細くてこう配のある道をだらだら降りると下案下につきます。ここは小さな集落だが大きな家が多く、バスの終点であり、昔はここに炭や新などを集積し、八王子方面へ送り出す拠点でした。あった。まだ面影を残す店が残ります。佐野川村との親戚も多くいます。
- 道は更に狭くなるが、平らで楽な街道となり、下、上案下を過ぎると、街道は上恩醍醐方面と八王子方面の分岐点にあたります。醍醐方面へ少し行くと市立恩方第二小学校が右側にあります。この学校の東側に金昇庵(松姫さまの仮宿)があったと言われるが、今は痕跡もありません。
大月岩殿城主小山田信茂の裏切りにより勝頼は倒れますが、松姫一行は和田峠、醍醐峠または鶴峠、西原峠を越えここに落ち着いたと言われています。なお、佐野川和田峠方面は上野原との、また醍醐は檜原との往還道路でもありました。
- この分かれ道から八王子側に50mも行くと左に高留の口留番所跡があり、ここで旅人は足止めされました。近隣の人30人ほどで守っていたといいます。この辺を「関場」とも言うのもそのせいかもしれません。ここには、「番所と松姫さまの金昇庵跡」の碑があります。
- なお、このあたりは、古い上恩方郵便局も残り、風情のあるところで観光施設「焼け小焼けの里」や「夕焼け小焼け」の童謡で有名な「中村雨紅」の生地であり宮尾神社もあります。「雨紅」はここの宮司の息子です。
ここに落ち着いた松姫さま一行は八王子の「千人隊」やゆかりの人と連絡を取り生活をしていたが、やがて下恩方にある大きな寺「心源院」に移り住み静かに余生を過ごすこととなります。(一行のなかには、武田家家臣穴山梅雪の妻見性院もいたとも) - さらに、この辺は檜原や八王子、佐野川、上野原、醍醐方面などへ通じるため道標が数多くあり、案下バス停から500mいくと「左醍醐、右案下」の道標があり、写真では紹介できないが、高留道標や関場道標には「佐野川・上野原」などが出てきます。
- 中村雨紅の紹介を少しします。神社の入口には基があります。ここから5分登ったところに宮尾神社がありますが、当時雨紅は都内日暮里の尋常小学校の教師で八王子駅まで約16キロを通っていたそうです。帰りには「夕焼け」と「お寺の鐘」が聞こえそれを歌にしました。さてどこのお寺の鐘かまだわかりませんが、多分神社に近い「興慶寺」ではないかと言われています。
ここは大きな寺で鐘つき堂は山の中腹にありかなり遠くまで聞こえたのではないかとおもわれます。現在「ゆうやけ小焼けの里」も約15年過ぎますが、雨紅の詩に詠われた情景を重ねながらつくられた施設はいまも盛況のようです。
- ここを過ぎ街道下に「ます釣り場」が出てきます。個々の反対側の街道左上にも道標があり、「右八王子方面。左和田、佐野川方面。側面醍醐、檜原方面。」とあり。現在は畑だが、ここに旧街道はあったようで、恩方も街道筋が大きく変わっています。ここから狐塚の集落に入ると「興慶寺」入口があります。
- 「興慶寺」は山奥にある臨済宗南禅寺派の大きな寺で山門までは急勾配の石段をかなり登ります。山門も立派で手入れの行き届いた落ちつく寺です。
鐘楼は境内とは別に本堂を見下ろす山腹にあり、狐塚、黒沼田などの集落が見え、昔の面影を今に残す寺です。
「興慶寺とこの寺の鐘の音を今日も安らかに聞くぞうれしき。雨紅」の碑が残されています。
黒沼田〜心源院
- 興慶寺を過ぎると街道はのどかな道となります。流れも静かな清流の脇を街道は行きますが、途中、現在恩方ではここしかないという水田が広がる昔の光景が出てきます。
- やがて、恩方中学を過ぎると市恩方事務所前に真言宗智山派「浄福寺」があります。14~15世紀ころ滝山城主だった大石氏が築いた浄福寺城が寺の背後にあったことで有名です。また百年前という「しだれ桜」が見事であり、城跡の面影を残す石垣にも囲まれています。
- ここを過ぎ圏央道下を通ると川原宿に出ます。昔は大きな街道の宿場でした。高尾街道と陣馬街道が交差するところで、交差点手前を右折すると「心源院」です。
- 入口には大きな門柱があり、手前に石像があります。901年滝山城主大石氏が開基の曹洞宗の寺。金昇庵に仮宿していた松姫はここの高僧「ト全和尚」によく教えを請い参禅していたが、ここで出家しとなりました。ここには千人同心小谷田氏の碑もあり、千人同心の援助を受けていたことが知られるところでもあります。
「心源院」は境内も大きいが松姫に関するもは境内にありません。大きな鐘楼もあるが、ここには雨紅直筆の「夕焼け・・」の歌詞が残っているといいます。
- さて、川原宿は北海道富良野の写真で有名な「山岳写真家前田真三」の生家があり、また旧道沿いには八王子の伝統文化である『車人形』の「西川古流」さんの生家と稽古場もあります。ここが昔栄えた名残でしょうか。
- ここから今の街道を外れ、旧街道の細い道を少し走ると、街道沿いには他にないような大きな康人様立像などが立ち並んでいます。
川原宿〜追分宿
- 街道も最後に向かいます。途中、恩方市民センター入り口を右折すると曹洞宗「観栖寺」があります。ここもまた大きな寺であり、山門も大きい。この境内にも「夕焼けの鐘」の大きな石碑があります。
「ふるさとはみな懐かしく温かく、今宵も聞かむ夕焼けの歌」中村雨紅(昭和22年111月7日)
雨紅が聞いた寺の鐘は、どこの寺の音を聞いたのかわかりませんね。
- 元八王子四ツ谷交差点を過ぎると、まっすぐ追分の交差点まで平坦な道になります。横川橋を過ぎるともう追分の交差点が見えるが、日吉町という小さな町の裏路地が旧街道です。ここを出たところが甲州街道と陣馬街道の大きな交差点があり、ここに、かつて武田家の家臣であった「千人同心」の碑があり、その歴史が書かれています。また交番があるが、その近くに道標があり「左甲州道中高尾山麓、右案下道」とあります。
- 約30~32kmの陣馬街道も終点になりますが、八王子市に入ると現在の道路と昔の案下道では大きく変わっているが、いずれにしろこの街道を通り、山を越すのは大変であったと想像します。
松姫さまの悲劇
- 松姫さまの終焉の地、八王子「信松院」。甲州街道八王子追分まで来ましたが、松姫さまの眠る信松院はここから約500m約10分のところにあります。昔の市民会館の近くです。
- 松姫さまの「400年祭」が平成28年に開かれました。武田家滅亡の悲劇の中で松姫さまは、どんな気持ちで織田氏の甲州征伐から逃れ、山谷を越え八王子にたどりついたのか、想像を絶する思いです。この間、信州高遠城の兄仁科盛信が壮絶な死をとげ、さらに勝頼が天目山で自害、そして織田信長の子信忠との悲しい別れと本能寺での死。悲劇に見舞われながらも生きてきた生涯でした。しかも苦難の山超えには、兄盛信の四女督姫、勝頼の4歳の姫貞姫、岩殿城主小山田信茂の4歳香貴姫を伴い、わずかな家臣に守られ苦難の後思方にたどり着きました。
- やがて、恩方にある曹洞宗心源院のト全和尚を訪ね禅師のもとで剃髪し仏弟子となる。法名を「信松禅尼」とし、時に22歳でした。
- やがて自身の庵を持つべく八王子上野原宿で「御所水の流れも清い御所水の地」に移り庵を結ばれました。現在の信松院のあるところで、昔は清い水が流れる場所でありました。
- ここで今までの武田家や出会いのあった悲劇の人々の菩提を弔う日々を送られました。この時に松姫さまが伝えた織物は、後世「八王子織物」となり、甲斐織物と並んで発展していきました。
- 江戸期に入り、徳川幕府は「甲信」の備えとして「千人同心」を置いたが、これは武田家旧家臣たちでした。さらに関東の総代官所を八王子に置き、この総代官に「大久保長安」をおきました。この「長安」もまたかつて武田の家臣でありました。この「大久保長安」こそが、現在の八王子の市街地の基を築いた人です。
- 旧主の松姫さまがおられるということで、皆が勇気づけられ、また家康も松姫さまが八王子にいることを知り寺領をおくり、消息も尋ねられたといいます。
- しかし、元和2年(1616年)4月16日に、戦国の世を強く生きてきた松姫さまは皆に温かくも見守られながら眠りにつきました。
- 今、信松院には入口に松姫様の旅姿の銅像があり、昔のままの墓がありお参りに来る人が絶えません。毎月16日でないと寺内は拝見できませんが墓参はできます。
- 最後になりますが、松姫さまは第2代将軍秀忠の子(正妻の子ではない)を江戸に訪ねよく面倒を見ました。やがて、この子は、兄仁科盛信の居城、信州高遠城主となった高遠藩主「保科正之」であり、名君保科正之といわれました。
- また、翌年には家康がなくなり、日光東照宮に祀られるが、この東照宮の警備を担当したのが「八王子千人隊」であることも家康との因縁を感じます。(「三方が原の戦い」は家康と宿立の戦いであり、家康は徹底的に敗れ浜松城に逃げ帰りました。この時の負けた姿を絵にして生涯の反省材料としたことは有名。ここで敗れた武田の家臣を生涯家康は大事にしました)