ふじの昔話タイムトラベル第1回は『甲州街道と吉野宿』でした。
2023年8月26日(土)、藤野中央公民館で開催(講師:長田正夫さん)した講座のテキスト版です。
※動画もYoutubeでアップ予定です
甲州街道
甲州街道は慶長9年(1604年) に甲府まで完成し、7年後の慶長16年(1611年)に下諏訪まで全線が整備された。
徳川家康は甲州街道整備にあたり、街道に一里塚を作るよう総奉行(代官頭)である大久保長安に命じた。
一里塚は休息所として、また、里程や人馬賃銭の目安とした。
一里塚は 呼び名の通り一里ごとに設置するもので、必ず木を植えることを条件とした。
大久保長安が家康に「どんな木を植えたら良いか?」と尋ねると「いい木を植えよ」と言われたが、「いい木」が「ええ木」となまって「榎(えのき)」になったという説がある。
藤野の一里塚は江戸から17番目に位置し、藤野駅から西へ200mくらい所に大きな榎がある。
甲州街道は甲府まで36宿36里(144km)、下諏訪まで45宿56里(224km)あり。
吉野宿は江戸から17里(68km)で甲府までのおよそ中間点であり、10番目の宿場町であった。
参勤交代
ここを通る大名は3藩で、大名行列のたびに大勢の見物者がいたらしい。
参勤交代は、諸大名が定期的に出仕させられた。
寛永12年(1635年)に義務付けられ、諸大名の幕府に対する忠誠・大名統制の確保のためだった。
通過した藩主は、伊那 高遠藩(3万石)、諏訪 高島藩(3万石)、伊那 飯田藩(2万石)。
伝馬の宿駅常備は25人25匹と定められ、常備が不足した場合に補うため、助郷(すけごう)が決められていた。
助郷:吉野宿、定宿郷、日連村、沢井村、加助郷、三ヶ木村、中野村、青野原村
甲州街道の通行
物資
江戸時代の中期以降には農業生産力の発展とともに商品流通も盛んになった。
そのため甲斐・信濃から大消費都市の江戸へ輪送されるようになった。
幕府に公認された中馬と称する私的物資の輸送業も盛んに見られるようになった。
信濃国伊那地方から起こり、延宝元年(1673年)に幕府に公認された。
一人で数頭の馬に荷をつけ引き、付け通しにより大量の荷物を江戸に輸送した。
江戸へ向かう中馬や甲州八代郡九一色郷の馬持ちなどによる稼ぎ馬の通行も多くなった。
江戸に向かう中馬や稼ぎ馬は、傷みやすい甲州産の桃やぶどう・梨・柿などの果物輸送にて敏速さを買われて利用されたが、その他は煙草・繰綿・甲斐絹などがあり、江戸からは登せ糸の上方への出帯が見られた。
特に安政の開港後は甲州産の生糸の輸送路として重要性を増した。
人
文政3年(1820年)の関野宿における人馬使用数を見ると、年7,855人、4,364匹となっている。
その他、善光寺参り、富士講、身延山参詣などがあり、甲府勤番の侍や幕末の新選組・江島生島事件の江島も使用した。
小猿橋
吉野宿の平坦な道を通り西の外れにある廿三夜、念仏の石碑を左に曲がり、絶壁な所に造られた道を下ると沢井川の下流・相模川の合流点に至り、ここに架けられた橋が小猿橋で、街道の難所の一つと言われていた。
長さ14間(25m)幅2間(3.6m)高さ5丈8尺(19m)。
架橋の時期は大永4年(1524年)頃と言われている。
山梨県大月市にある猿橋と工法・形ともに同じ(両岸から木を積み上げながら出していくもの)であったため、小猿橋と名付けられた。
この場所は川幅が一番狭く激流で橋脚が立てられなかったため、この工法が用いられた。
小猿橋は10年ごとに架け替え、5年ごとに板の張替えを行った。
橋の修理費はすべて公儀のお金で賄われたが、幕末は吉野宿の自普請にさせられた。
その間も「御普請所」からも修理費は支払われたが、年々額が減少した。
宿屋に「飯盛り女」を置き修理費に充てられた。
飯盛り女は「飯盛旅籠」として許可されたが制限が定められ、「一軒につき二人、衣類は、木綿にかぎる」とした。
小猿橋から見た景観、特に相模川に立つ金亀岩(別名、浅間岩)は素晴らしく、この付近で休息する旅人が多かったという。
子どもたちは、相模湖が出来る前はこの道を通り良く遊びに行った。
また、養蚕の洗い場として利用している人も多かった。
江戸時代の後期狂歌師蜀山人(太田南畝)作に
親渡す為に掛けしか小猿橋 これぞ甲府の道と知るべし (↑の甲府は、考夫とかけたもの)
悪は与瀬 善は吉野の二瀬越え これぞ教えの近道と知れ
この詩が吉祥山浄光寺の襖絵に23世万元和尚の筆により残っている。
その後、明治5年(1872年)に上流に新猿橋、昭和8年(1933年)に吉野橋が完成した。
茶壷道中
茶壺道中は、三代将軍徳川家光が宇治茶を献上させたことに始まる。
四代将軍徳川家綱の時、富士山の冷風を茶にあてたのちに江戸へ運ぶようになり、甲州道中を通行するようになった。
大名通行は宿の常備人馬で足りていたが、茶壺道中は大規模なため、相州四カ宿と定助郷の人馬では足りず、既定の3倍もの人馬が必要であった。
規定を超えた分の人馬は御定賃銭を支払う規定であったが、超過分の賃銭は支払われることなく宿と助郷の負担となっていた。
従って、助郷を巡って免除願や訴訟が起こっている。
その中で吉野宿は、旅籠屋が旅人の休泊で活況を呈していた。
甲州街道の開削
甲州街道の中でも小仏峠は最大の難所と言われた。
明治時代になると商品の流通が盛んになり、難所の解消に向けて世論が高まり、路線の検討が取り上げられるようになった。
そして、3案が俎上に乗せられた。
- 案下通
上恩方一和田峠一佐野川一上野原 - 小仏峠
上長房一小仏峠一小原ー上野原 - 千木良通
上長房ー大垂水峠ー千木良ー上野原
「千木良通」は、東側の道は粗いが峠自体は高さ30間ばかりで極めて狭薄なため、あたかも小屏風を立てたようであり、それを切り崩して道を作るのに工費を多く必要としない。
横浜・神奈川にも通じる。
また、1・2案の場合、津久井の村街道に面した村々から生活を奪うことになる。
高札場
高札場は今の掲示板と同じようなもので、民衆に知らせるために立てられた。
幕府、藩が法令等を墨書して掲示した。
吉野宿
宿の状況 弘化元年(1844年)
- 宿高 329石7斗4升8合
- 与瀬宿へ 34町28間
- 関野宿へ 26町
- 人口 527人(男247人、女280人)
- 本陣 本陣1軒、脇本陣1軒
- 旅籠屋 3軒(うち大1、中2)
吉野宿の生活
宿は田より畑が多く、用水は沢井川の流水または宿地内の谷間からの流水を用いる。
飲み水は堀井または清水を用いる。
農業のほか旅籠は旅人の休泊を受け入れ、また商いをする。
相模川では鮎の漁猟が行われる。
宿の男は往還稼ぎや山稼ぎなどを行い、女は機を織る他に慣れた手仕事はない。
五穀のほか、時々野菜を作る。
吉野宿本陣五層楼
甲州街道吉野駅の本陣五郎層楼は、江戸末期に計画され明治期に入り、明治9年(1876年)に完成した。
設計図によれば、3階建ての土蔵は既設の建築で、五層楼はこれを取り囲むようになっている。
既に江戸幕府に依よる街道本陣という制度は消滅していたが、明治18年(1885年)太政官制の廃止まで、当時の惰性により戸長として本陣や名主の機能が見受けられ、明治13年(1880年)の明治天皇行幸時には昼食行在所となった。
五層楼の建築計画中から、行幸という大きな事柄が含まれていたものと考えられる。
明治29年(1896年)12月の吉野大火災で五層楼は焼失したが、隣接の土蔵は焼失を免れた。
明治天皇御巡幸
明治天皇行幸は以下のように行われた。
明治13年(1880年)6月16日に皇居出発・内藤新宿一高井戸(小休)一布田駅(小休)一府中駅(昼食)ー日野駅(小休)一八王子(御泊行在所)
6月17日に小仏(小休)一底沢(小休)ー小原宿(小休)ー与瀬宿(小休)ー吉野駅(昼食行在所)ー小渕中之茶屋(鮎漁天覧)ー山梨県上野原宿(御泊行在所)
陛下侍従は、三条実美、寺島宗則、伊藤博文などの高官とこれに随従する者、その数130名。
乗馬・輓馬(ばんば)84頭、神奈川県令野村靖もこの中の一人であった。
吉野駅本陣は昼食行在所となり、五層楼二階(三階)で昼食をなされた。
吉野を出発した一行は小渕「中の茶屋(秦松太郎家)にて御小休、相模川の鮎漁を天覧の後、山梨県上野原宿に向かわれた。
この県境において、山梨県令藤村紫郎は神奈川県令より案内を引き継がれた。
明治5年(1872年)九州・四国、明治9年(1876年)東北・北海道、明治11年(1878年)北陸・東海道巡行、明治13年(1880年)中央巡行、明治14年(1881年)東北・北海道巡行、明治18年(1885年)山陽巡幸
明治10年代に集中しているのは、近代天皇制国家の国造りの時期であったため。
大久保利通が関わっている。
吉野宿の大火
大火災は明治29年(1896年)12月29日の午後7時30分頃、西方の厩(うまや)から火が出て、大風のため飛び火で大火になった。
焼失家屋は135軒・土蔵15棟、死者13名・負傷者9名。
残ったのは土蔵数棟だった。
馬を預かる商売で、馬の世話をするために提燈を持って厩に行き、その提灯の火がワラに燃え移り大火になった。死者の中には、火元の近くに住んでいた戸田医院の家族6人もいた。
この戸田医院の家族の死を悼んで、神奈川県医師会では近くに慰霊碑を立てた。
吉野宿ふじや
ふじやは、大火の前は旅籠だった。
2つあった土蔵のうち1つは焼失を免れたが、下段にあった蔵と二階建ての倉庫は全焼した。
今でも残っている石崖(弘化3年(1847年)頃のもの)には随所に焼け焦げた石が見られ、火事の凄さを感じられる。
ふじやは大火の翌年、明治30年(1897年)に再建。
旅籠造りと違い、養蚕のできる切妻造り(真屋とも言う)、平入(平らな入り口)の町屋建築である。
玄関は式台玄関の特別な造りで上客しか利用されなかった。
ふじやは平成元年(1989年)に大房佳良顕から藤野町へ資料館として寄贈し、平成3年(1991年)6月に「藤野町郷土資料館」としてオープンした。
相模原市と合併後は、市の施設「吉野宿ふじや」へ改名し、現在も利用されている。
国道20号線の歩道確保のため本館を曳家され、平成25年(2013年)7月2日にリニューアルオープンした。
北白川宮殿下が、大正2年(1913年)11月2日に御宿営所とした。
殿下は陸軍第一師団演習行軍に参加され、 途上宿泊された。
宿泊所の船艇にあたり、侍従が何回も調査に来られたという。
御一行は演習に向かい、甲府市勝沼町で2泊された。
吉野十郎
天保4年(1833年)〜明治33年(1900年)
津久井郡吉野町の出身、初代津久井郡長として頗(すこぶ)る徳望があった。
多年在職中、その功績は多かった。特に津久井郡の教育が県下にその名を知られていたのも吉野郡長が教育に意を注いだ為であると言われている。その後愛甲郡長より足柄下部長に転じ、遂に小田原にて客死した。
吉野家は津久井郡の名望家で、甲州街道に面し旧本陣と称し、明治13年(1880年)明治天皇御巡幸の際、同家は安在所となった。
神奈川県下の郡長中でも名声は錚々(そうそう)たるものであった。当時は階級制度の甚だしい時代で、郡長といえば非常な権威があったものであるが、吉野町より中野町の郡役所まで毎日乗馬で通勤し、当時の郡民の敬慕の的となってい た。
徳川時代に代官を勤めた守屋佐太夫と共に土地出身の名吏である。
鉄道の開通
甲武鉄道が明治22年(1889年)8月11日に新宿から八王子まで開通。
明治34年(1901年)に八王子から上野原まで開通。
トンネルに使用した煉瓦は与瀬地内で焼き、原料の土は勝瀬産を使用した。
石材は名倉の山から切り出した。
料金は与瀬一八王子2等15銭。
人夫の日当、普通の人で25銭。
中央線は急勾配のため速力が落ち、トンネルが多くばい煙に悩まされた。
そのため、甲府一八王子間、85kmの電化を昭和6年(1931年)に完成させた。
藤野駅は昭和18年(1943年)7月15日に出来た。
力士 追手風喜太郎
追手風喜太郎は寛政11年(1799年)小渕の関野に生まれた。
男三人兄弟の末子で幼名を松次郎と言い、幼少の頃から体格も人並み優れて良かったと言う。
松次郎少年が9歳の時、同郷出身の叔父、追手風小太郎が長崎巡業の折り、松次郎少年の家に立ち寄った。
この時松次郎は親の止めも聞き入れず、追手風小太郎の後を追って付いていった。
親は上野原の諏訪の番所まで追いかけて行き、連れ戻そうとしたが聞き入れず、泣く泣く帰ってきた。
毎年その日が来ると、氏神「三柱神社」に大願成就の祈願を込めて松次郎の出世を祈り続けたと言う。
松次郎は早くから力士の仲間入りができ、文化14年(1816年)頃は松次郎とも松五郎とも呼ばれていた。
その後シコ名を黒柳と改め三段に序列され、文化15年(1817年)には序二段12枚目で4日間全勝。
文政7年(1824年)10月には西の幕尻に昇進、文政12年(1829年)2月には前頭筆頭となり、名を住右衛門と改めた。
翌、文政13年(1830年)3月、吹上13間御門外において将軍の上覧相撲が行われ、住右衛門は関脇格で柏戸を破り、その賞として弓を受け取るという栄光に輝いた。
黒柳住右衛門がシコ名を追手風としたのは、天保2年(1831年)春場所からで、天保7年(1836年)10月には西大関に昇進した。
年寄りになってからは、雷電、境川に次いで相撲界の要職を占め「雲竜型」で知られる雲竜等多くの弟子を出した。
4代目追手風喜太郎は、増珠寺に祖先の供養のために蜀台1対、華瓶1対、香炉の5具足と灯篭を寄進している。
また、三柱神社に「四神像」を献上している。
この四神は、地相をを判断する風水思想である。
「東に河川(青龍)、西に街道(白虎)、南に平野(朱雀)、北に山地(玄武)のある地形を『四神相応』と称し吉相とする。
平安京に至る古代官都や地方の官衙立地は、この観念に基づいて選定された。