[レポート] 3/23(土) ふじの里山ウォーキング〜山路に暮らしの名残りを探して

毎年恒例、春のふじの里山ウォーキング。

昭和40年頃まで、旧藤野町の暮らしを底支えしたものが炭焼きと養蚕。

今では当時のことを知る人々が少なくなり、気配を感じることも少なくなりました。

今回は、三宅岳さん(藤野在住の山岳写真家)と杉本正夫さん(佐野川在住の歴史研究家)お二人のガイドで、佐野川地区(神奈川県相模原市緑区)で栄えた養蚕や炭窯跡を巡り、当時のことを感じながら歩いてきました。

ルートマップはこちらです↓

御霊から入り、上岩へ抜けるルートでした
御霊から入り、上岩へ抜けるルートでした

御霊神社と蚕影神社

上野原駅(JR中央本線)から富士急バスで「御霊」バス停まで移動し、徒歩5分ほどのところにある御霊神社をまずは訪問。

御霊神社にて杉本正夫さん(歴史研究家)からお話を伺う
御霊神社にて杉本正夫さん(歴史研究家)からお話を伺う

鎌倉権五郎という武士が、鎌倉で起きた内紛の時にこの地へ移り、その後、この地区の神社として祀られるようになったようです。

御霊神社の境内にあるのが、蚕影神社。

蚕影神社
蚕影神社

佐野川は「養蚕発祥の地」として、各地区で古くから「神」を祀り仰してきました。

そのため、地区ごと(御霊、上河原、和田、下岩、上岩)に蚕影神社があります。

祭神はいずれも「豊受姫神(たまうけひめのかみ)」です。

御霊地区では例祭日(4月15日)には旗を立てて地区の人が参拝していたようで、古くには福引も行われ賑わったと言われています。

御霊神社から登山道へと入るところに、昔、岩村小学校やお寺があった場所(地蔵堂)に立ち寄りました。

お堂や当時のお坊さんのお墓などが置かれています
お堂や当時のお坊さんのお墓などが置かれています

このお堂の中にも入らせてもらい、旧藤野町の文化財とされている「武閑入道」の木造を拝見。

杉本さんが武閑入道やお堂について説明
杉本さんが武閑入道やお堂について説明

お堂の隣に茂っている竹藪のところに、岩村小学校があったそうです。

竹藪に覆われているところが岩村小学校跡
竹藪に覆われているところが岩村小学校跡

佐野川村と岩村の由来

なぜ、佐野川の中に「岩村」という名前の小学校があるのか。

佐野川という地名がついた由来と、岩村の地名の由来を、杉本さん作成資料から紹介させていただきます。

奈良時代に書かれた日本書記の「日本武尊(やまとたけるのみこと)東征伝」によると、「尊(みこと)が軍を三国山で休めたとき、水を求め、鉾で岩に刺したところ、そこから水が出た。ここを甘草水(かんぞうみず)と言う。流れ出る水がやがて川となった。」古代、神武天皇の時代のことです。

三国山頂に小さな祠がある。これが狭野神社で、祭神は神武天皇、狭野尊(さののみこと)とも言う。三国山下に湧出する「甘草水」は狭野尊から賜ったものとして、この水を源流とする川の名を「狭野川」とし、やがて「佐野川」と改め村名になったと言われます。

この狭野川は、鎌沢方面からきているが、陣馬方面からくる沢井川と、和田八幡神社のところで合流する

そこで合流する川は、その昔『蚕糸の川』と言われた。やはり蚕と深い関わりがある地域と思われます。

一方、ここ佐野川はその昔、東部を佐野川村(江戸時代初期は豊後・和田分)、西部は岩村(江戸時代初期は才兵衛・岩分)と称した時代がありました。

西部の岩村は蚕山神社とも関係しています。

蚕山平の住人で桑園を開いた「多強彦(おおすねひこ)」は、朝廷とも関係していた。しかし当地に代々住み、9代目が石村石楯であり「高座県主」である。やがて石村石店は代々上岩「石橋神社」の神主となりました。

この石楯尾神社の祭神も神武天皇であり、「神日本磐余彦天皇(かんやまといわれひこのみこと)」とも言われます。
「磐余(いわれ)」とは、岩村のことで、大軍の「いわむ」ことからやがて地名となる。また石寸(いわれ)とも言う。神武天皇の大軍がいたということから、岩村の地名となったとも言われる。

佐野川地区は最初、佐野川村と岩村であったが、後に一つとなり「佐野川村」となったという。

佐野川蚕山平と蚕山神社の歴史(作:杉本正夫さん)より

炭窯を巡る

岩村小学校跡の向かいにある登山道から、蚕山平(768m)へ向けて進みます。

いくつも枝分かれする山道を進んでいくと、炭窯が現れました。

藤野で行われていた炭焼きについて、三宅さんから説明がありました。

この地域では1990年代まで、生業として炭を焼かれている方がいました。この地域で焼かれていた炭の多くが『白炭』です。

炭には製炭方法の違いで白炭と黒炭に別れます。炭材の違いではありません。また、茶道でいう白炭(=枝炭)は、胡粉を塗って白くしているので、ここでいう白炭とは違うものです。

では、白炭と黒炭の大きな違いというのは何かというと、それは消火方法の違いによります。

窯の外で火を消す窯外消化で作られるのが白炭。炭化率が高く固い炭で、叩くと金属音がします。火が熾しにくいが、長時間燃えています。代表は備長炭で、プロの料理人(焼き鳥屋さんなど)には重宝されます。

一方、窯の中で、空気を遮断して消火され窯内消化で作られるのが黒炭です。柔らかい炭で、火をつけやすい。燃焼時間は比較的短いです。お茶炭もそうですし、バーベキューの炭はほぼ黒炭です。

さて、この地域の白炭の窯はいくつかの特徴があります。一番の特徴は、石窯だということです。この付近には耐火性の強い粘土が無いので、製炭時に高温になる白炭を焼くには、石の窯が必要でした。一方で、石の窯は重量があるので、窯のサイズをあまり大きくできません。そこで、日窯と呼ばれる、小型の窯での操業となります。

この藤野町から、隣接する山梨県の上野原周辺、さらに東京都檜原村から多摩地域、そして秩父に至る広域で、白炭が焼かれていました。

ちょっと前に話題になった、鬼滅の刃の主人公の家族は東京都最高峰である雲取山で炭を焼いていたようですが、あの付近の窯も日窯で、ほぼ同じスタイルです。

【日窯の特徴】

  • 石窯である。
  • 一回の操業で製炭される炭の量が少ない。(3~6俵ぐらい)一俵はおよそ15キロ
  • 一日おき程度で出炭となる。
  • 炭材は外から放り投げるので、窯を冷まさずに連続操業を行う。

旧藤野町の二大産業 炭焼きと養蚕をしのぶ山旅(作:三宅岳さん)より

引き続き、歩を進めていくと、かなり壊れてきていましたが、二基の炭窯を見ることができました。

炭窯のまわりには、当時作ったものと思われる炭のカケラもたくさん落ちていました。

炭窯周辺に置いていた炭のカケラ
炭窯周辺に置いていた炭のカケラ

斜面をジグザグに登り、そこから稜線を進むと、大木の根に守られるように庚申様が祀られていました。

この場所は稜線の交わったところになります。

庚申様には、右「さの川」と彫られており、右へ行けば登里、鎌沢、そして蚕山平へ。

左には「上の原、みたけ道」とあり、三国山頂を経て、東京都檜原や御嶽に出る、佐野川古道の一つです。

この古道は、今では人工林(御霊の共有林)のため見晴らしが悪く、少しうす暗い古道となっています。

蚕山平と蚕山神社

先ほどの庚申様を超えて山頂へ向かったところに、軍刀利神社があります。

戦いの神様として祀られ、昔は武士が勝利を願って参拝に来ていたそう。

ここで休憩と昼食を取り、蚕山平(768m)へ向かいます。

道のような、道ではないような平坦な場所を歩き進んでいくと、古びた建屋のようなものが見えてきました。

ここが、佐野川地区の養蚕の神様「蚕山神社」と、津久井の養蚕発祥の地と古代から言われている蚕山平です。

蚕山平の石碑と奥に蚕山神社
蚕山平の石碑と奥に蚕山神社

蚕山平と蚕山神社について、杉本さんの資料より紹介させていただきます。

蚕山平について

かつての蚕山平は、平坦で雑木林も綺麗に整備され、四方を見渡せたという。

昭和10年の村人の集合写真では、平担地で遠くに三国山頂も見える。例祭日は5月3日とされているので、参拝したのか、着物姿の正装で写真に納まっている。

今この場所に行くには、一番近い登里から行くにも登山の服装が必要である。それだけ、当時は山や道が常に綺麗にされていたという事かもしれません。

昔の記録によれば「平坦な台地で、陣馬山、大室山、青根山塊、相模平野の一部を展望できる景勝の地で、”古代大和武尊東征(こだいやまとたけるとうせい)”の伝説のある甘草水(かんぞうみず)に近く、桑の老木もあり、桜の大木も植林されている」と記されています。

今はというと、この写真の面影もなく、人工林の大木で、どこが蚕山平なのかわかりません。よく見ると「平坦地だった」とわかる程度です。

また、昔は「参道であった」と思われるところには、桜が両脇にあり、草刈をすれば復元できそうな面影があります。

昭和57年頃までは、蚕山神社まで登り、旗を立て、神主により祭礼を執り行い、神社前では祭りの宴を行い、福引も行われたりしていたようです。
佐野川でも養蚕をやめてもう50年近くなり、ひっそりとした神社境内には、祭札を行っていたころのビール缶や瓶が転がっている。

まさに「つわものどもの、夢の跡」という感じがします。


佐野川蚕山平と蚕山神社の歴史(作:杉本正夫さん)より
平地の中にひっそりと蚕山神社が佇んでいます
平地の中にひっそりと蚕山神社が佇んでいます

蚕山神社について

現在の神社は、約70年前の昭和21年11月3日に再建されたものです。

高い山頂にあるため参拝が困難になり、昭和44年4月に下岩地区に移築された(場所は第二次世界大戦の戦死者を慰霊する碑(慰霊神)の裏山にあります)。佐野川一村の蚕影神社として昭和50年代中ごろまで、参拝していました。

下岩地区慰霊神裏にある神社には、蚕影神社のお札が収められており、蚕山神社の神様とは少し違いますが、当時は同じものとして移築したものと考えられます。

昭和50年代に入ると養蚕する人もいなくなり、また各地区に蚕影神社があるため、やがて、一村の人が集合しての参拝もしなくなり、蚕山平の蚕山神社も下岩に移築した神社も、いつしか忘れられた存在となり、補修や管理がなされなくなってます。

そのため、現在は風害によるものか本殿は横倒しになっており、覆殿にかろうじて、原型をとどめています。朽ち果てるのは時間の問題かもしれません。

この神社前には高さ1.5メートルの大きな自然石の石碑が建立されています。
表には大きく「古代養蚕遺跡、蚕山平」、右側には「相州津久井郡佐野川村古跡顕彰会。昭和6年建立」とあります。

佐野川蚕山平と蚕山神社の歴史(作:杉本正夫さん)より
今にも倒壊しそうなほどに神社は傷んでいます
今にも倒壊しそうなほどに蚕山神社は傷んでいます

蚕山平と蚕山神社の歴史や伝承

■東国、津久井養蚕のルーツ

全国の養蚕のルーツ、日本の発祥地は「茨城県つくば市神都」だと言われている。養蚕の神を祀る神社は、蚕影(こかげ)神社と言うが、つくば市にある蚕影神社が全国の蚕影神社の総本山と言われています。

佐野川にある蚕山平は三国山中腹標高約800mのところにある。蚕の山で「蚕山(こやま)」というのであろうか。

ここに蚕の神様を祀る蚕山神社がある。佐野川一村の神社である。ここが東国、津久井の養蚕のルーツ(一番のもと)、起源と言われているところでもある。

ただ、ここに祀られている神様は、各地区にある蚕影(こかげ)神社の神様と違う特異な神が祀られている。

・蚕山神社祭神

 尾船豊受姫神(やふねたまうけひめのかみ)、彦狭知神(ひこさしりのかみ)

・佐野川の各地区、蚕影神社祭神

 豊受姫神(たまうけひめのかみ)

となっています。

やはり、蚕山平の蚕山神社は特別なものかもしれません。

■「新編相模風土記稿」(1841年江戸時代)と蚕山神社

高い山で養蚕ができたのであろうか。天蚕(やままゆ)は、全国に分布していると言う。これは、天然繭でクヌギ、ナラの木の葉を食べ黄緑色の繭になるいうが、生糸にするには細すぎて技術が難しいという。

しかし養蚕による生糸の生産の歴史は古く。日本でも弥生時代(約1,800年くらい前)には行われていた。桑の木があれば山でも可能だったのだろうか。

「風土記稿」に蚕山平と蚕山神社の事が伝承として次のように記されている。

「蚕山、古也麻、神山、古山という。三国峠の中腹にあり、地形すこぶる平坦、石楯尾神社を祀り、これを前社という」

更に桑園については、「津座森(つくらもり)と云う、蚕山から西北十町辺りにある。文化年間(約200年前)には桑の大樹5、6株あったが今はない」と書かれている。ここから蚕山は「高座(たかつくら)」ともいう。石楯尾神社は「高座郡」に有りというが、ここからきているのだろうか。

「津座森」に「津座森明神」を祀ったというが、のち蚕山平に移し、蚕山神社として現在の場所に移したという歴史があります。

佐野川蚕山平と蚕山神社の歴史(作:杉本正夫さん)より
蚕山平までの道のりはなだらかな平地
蚕山平までの道のりはなだらかな平地

「今は石碑と傾いた蚕山神社がひっそりと山の中に佇んでいますが、何処かに養蚕の歴史の面影があり、この地域の養蚕、絹の歴史はこのような起源をもつ費重な財産であり、大切にしていかなければならないと思います。」と、杉本さんより。

杉本さんの説明と目の前に佇む蚕山神社を見ながら、養蚕が栄えた昔と現代の暮らしの変化へ一人一人が思いを馳せつつ、蚕山平を後にしました。

下山して石楯尾神社まで

佐野川峠から下山です。

手入れのされた植林地を歩き、山の神様(馬頭観音)に参拝。

山道にひっそりと馬頭観音さまがあり(写真中央の白い部分)
山道にひっそりと馬頭観音さま(写真中央の白い部分)

上岩の集落が見え、登山口の出口あたりにも炭窯がありました。

この炭窯は状態が良く、窯の中を見ることができるため、一人ずつ順番に中を覗かせていただきました。

平らな石を積み上げ、上に行くにつれて少しずつ石をずらしながら、石同士が互いに重なり合って支え合う構造。

昔の人たちの器用さに、驚きとリスペクトです。

上岩地区の集落のなかに、馬頭観音がありました。

ここは石碑の裏側に蹄鉄が置かれており、「馬を大事にしてきたことがすごくわかる(三宅さん)」ものでした。

本日のゴール地点、石楯尾神社に到着です。

真ん中の部分に板をはめることで舞台になります
真ん中の部分に板をはめることで舞台になります

神社の門となっているところに板をはめると舞台になり、昔は村歌舞伎が行われていたそうです。

今でも、地区のお祭りの際に舞台にして、カラオケや演舞など、地域の人たちに利用されています。

石楯尾神社にある「七奇石」のそばにて
石楯尾神社にある「七奇石」のそばにて

今回のふじの里山ウォーキングはここで終了、解散となりました。

炭と蚕の歴史的なものがたくさんある場所、佐野川。

皆さんも機会があれば足を運んでみてください。

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